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はじめに





このブログのテーマ

はじめまして。藤巻隆(ふじまき・たかし)と申します。

今まで、サイトやブログを数多く運営してきました。


例えば、2001年4月16日に立ち上げたメインサイト、

本当に役に立つビジネス書は今年2013年で12年目を

迎えます。


この他に、藤巻隆 公式サイトなどのサイト、

私がグルと仰ぐ、大前研一氏の多数の著作から名言を

厳選して掲載しているブログ、新・大前研一名言集(改)

あるいは、こんなランキング知りたくないですか?

ナイスミドルのためのパソコン入門講座などのブログを

運営しています。


これからスタートするブログは、これらのサイトやブログとは

異なり、医師、看護師、薬剤師の方に役に立つ情報を

発信し続けます。



例えば、求人情報求人サイトの紹介や、最新の医学情報

できるだけ多く、詳細にお伝えしていきます。


あなたの転職に、このブログがお役に立てば、ブログマスター

として、これに勝る喜びはありません。



                          2013年4月吉日

                            藤巻 隆





読んで面白かったら
ポチっとしてください。






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医者と患者の関係 (2)






医者と患者の関係 (2)


以前にもこのブログで取り上げたことのある、国際的に
高い評価を受けている心臓外科医の南淵明宏さんが
著した、

『心臓外科医の挑戦状』
(南淵明宏 中公文庫 2008年3月25日 初版発行)

を読了しました。


この本の中に、「医者と患者の関係はどうあるべきか」
というテーマが書かれた箇所がありました。


そこで、 「医者と患者の関係」 を中心に
本の内容と、私の考えをご紹介していきます。


もちろん、私は素人ですから解釈に間違いがある
かもしれません。


もし間違いがあれば、ご指摘していただけると幸い
です。


まず、南淵明宏さんについてご存じない方のために、
プロフィールをご紹介します。



 1958年大阪府生まれ。 83年奈良県立医科大学

 卒業。 国立循環器病センター、セント・ビンセント

 病院(オーストラリア)、国立シンガポール大学病院、

 新東京病院などを経る。医学博士。わが国屈指の

 心臓外科のスペシャリストとして国際的な評価も

 高い。 現在、大崎病院 ハートセンター長。
 

  (『心臓外科医の挑戦状』 「著者紹介」からの抜粋
 と、近況は心臓外科医 南淵明宏 公式サイトの
 「プロフィール」から補足





心臓外科医 南淵明宏 氏
Wikipedia から








目次

第1章 医者と患者の深い溝

第2章 違和感だらけの医療裁判

第3章 医者同士の壁

第4章 患者の心得




本書の章順に従って、内容をご紹介して
いきます。


第2回は、第2章 違和感だらけの医療裁判です。

南淵さんは、原告(被害者)側証人として裁判に
出廷したことが難度もあるそうです。


法廷の内外で繰り広げられた争いに巻き込まれた
経験もあり、その都度感じたことも記しています。


手術室の中で行われたことは、手術に携わった
病院関係者だけしか知りません。
つまり、密室の中で行われているのです。


それだけに、手術中あるいは、手術後に患者さんが
亡くなった場合、遺族が訴訟を起こすケースがあり
ます。


その場合、どのように裁判が行われるのかについて、
詳しく語っています。 


その前に、まず、病院とはどのようなところなのか、
語っています。誰もが納得できることでしょう。


 病院とは人が死ぬところである。人の死を十分に

 理解し、納得することで「病院での死」は受け入れ

 られるのである。病院とは人が死んでしまうところで

 あるが、また患者や家族が「納得」するところでも

 あるのだ。
 

  (『心臓外科医の挑戦状』 P.61  以下同様)





 医療裁判 

「医療裁判」とは何か?
この問題に関して真摯な態度で語っています。
「感情裁判」という言葉が出てきます。


 医療裁判の多くは何かに納得できなかった患者遺族

 が起こす感情裁判だ。

 感情裁判とは、つまり患者遺族側が病院の不誠実な

 対応に「ミスの存在を確信して」起こす損害賠償請求

 の民事裁判、という意味である。 言い換えれば多くの

 場合患者側は、最初の段階では、ミスを合理的に証明

 する証拠を何ら持ち合わせない、患者側の推量で裁判

 起こす決心を固めているのである。 前章で述べたよう

 に結果がどのようなものでも、病院や医師はたいがいの

 場合、患者側に医療行為の説明のための資料や文書を

 渡す、あるいは交付することはないからだ。
 

  (PP.60-61)


病院や医師は、資料を保管しているはずですから、
患者側からの請求がなくてもコピーを渡すことはできる
はずです。 しかし、現実にはそうならないのですね。



こうした状況では、訴訟を起こしても証拠隠滅されたら
患者側は不利になります。


 証拠保全という法律的手続きがあり、カルテやレントゲン

 写真の複製を患者側が入手することができる。

 そのカルテを読み解き、過失を客観的証拠(カルテのこと)

 にもとづいて立証し、しかるのちに訴訟にいたるのが普通

 だが、医療事故情報センターの堀康司氏によると、

 医療裁判の60%はこういった証拠保全なしに行われて

 いるのだそうだ。
 

  (P.62)



医療事故情報センターについて調べてみました。


 医療事故情報センターは、医療事故被害者の

 代理人として活動する全国各地の弁護士が

 正会員となって構成される任意団体です。

 わたしたちは、医療事故の被害回復と再発防止

 の実現に向け、様々な活動を行っています。
 

  (医療事故情報センター Wikipedia から)



医療事故情報センターは、
「医療事故被害者の代理人として活動する
全国各地の弁護士が正会員となって構成
される任意団体」だそうです。


このサイトの中に、「医師から説明を受ける時」
という項目があります。
その一部をご紹介しましょう。


 医師から説明を受ける時

 何よりも肝心なことは、医師から説明を受けた後で
 必ずそれを記録しておくことです。

 実際に医師に説明を受ける際には、次の事項が
 一応の目安となります。

 患者の異変発生までの投薬や処置の内容と、
 それについての事故・副作用・合併症の可能性。

 これらについて事前の説明と食い違っていた

 場合に、その食い違いの理由。

 医療事故発生時の状況と医師・看護婦等の対応。

 事故直後に受けた説明と現在の説明とに食い

 違いがあれば、その食い違いの理由。

 患者の異変の原因についての医師の意見。

 後遺症、治癒の可能性について。
 

  (医師から説明を受ける時 医療事故情報センターのサイトから) 




ただし、いくら密室の中で手術が行われても、
内部告発文書が遺族のもとに届けられること
があるそうです。


 内部告発文書が遺族のもとに送られるという

 事態がもとで医療裁判に踏み切ったケースが

 ある。

 こういった内部告発文書は、わざと文法的に

 おかしな部分があったり当て字が使われて

 いたり、奇怪な文面であることが多い。

 2002年にある大学病院での医療事故で娘を

 亡くされたH氏のもとにも内部告発文書が

 届いたが、両親は最初は何を言いたい文書

 なのか理解できなかったという。

 こういった内部告発文書はもちろん匿名であり、

 告発者が出所を推測されるのを極端に恐れた

 結果なのだろう。
 

  (PP.67-68)



ここで、医療訴訟件数はどうなっているか調べて
みました。


グラフ1


医療訴訟の件数とその推移




新受も既済も横ばいですね。
増加はしていません。



グラフ2


医療訴訟の件数とその推移




整形外科や産婦人科がもう少し多いかと思い
ましたが、内科や外科を上回ることはありま
せんでした。



表1






平均審理期間は、ほぼ2年でこれもほとんど
変動がありませんでした。


これらのグラフや表を見て感じたことは、
医療訴訟は年々増加傾向にあるかと
予測していましたが、完全に外れたこと
です。


その理由として考えられることは、次のこと
です。少々長いですが、ご一読ください。
医療が非常に専門性の高い行為であることが、
裁判に長く暗い影を落としています。


原告側が勝訴できないのはなぜか、
頷けることがあります。


 最高裁の資料によると、医療過誤の民事訴訟は

 年間、約800件に上る。

 高い専門性が必要なため、通常の民事裁判よりも

 審理に時間がかかる。

 さらに訴えた患者側の主張が通る勝訴率は、

 約2割にすぎない。

 通常の裁判では8割だから、医療過誤で裁判を

 起こすには、極めて厳しい覚悟が必要になるようだ。

 しかし、それでも患者本人や残された遺族は、

 医師の謝罪を求め、何が起こったかを知りたいが

 ために提訴する。


 なぜ、患者側が勝訴することが難しいのか。

 裁判では、誰がどのように医療ミスを立証して

 いくのか。

 医療訴訟にくわしい浅尾美喜子弁護士に聞いた。


 「医療過誤事件においては、患者側の弁護士は、

 訴訟にする前に医療機関側と話し合いの機会を

 持つのが通常です。医療機関側の過失が明らか

 な事案では、この話し合いの段階で、医療機関が

 自らの過失を認めて示談にする例がほとんどです。

 つまり、医療機関側の過失が相当程度明らかな

 場合は、訴訟にはならず、訴訟前和解(=示談)で

 解決されるということです。


 医療機関側の過失は原告(患者側)が立証しな

 ければなりませんが、一般的に医師は医師をかばう

 傾向があり、過失があったと証言してくれる医師を

 見つけることは、至難の業です」

 浅尾弁護士はこのように医療訴訟の特徴を指摘

 したうえで、「医療事件で患者側の勝訴率が低く

 なるのは、医療がきわめて専門的で閉鎖性が高い

 分野だから、という側面があります」と話していた。
 

  (「医療過誤訴訟」はなぜ難しい?
   患者側の勝訴率わずか2割
 から)


上記の話は、南淵さんが、この本の中で指摘して
きたことと、軌を一にしています。


医師と患者の間には、「深い溝」があるのです。




 手術時間 

「手術にも適正な時間がある」、という話です。
長時間かかる手術は「怪しい」ということです。


 たいがいの場合、問題となった手術は長時間

 かかっている。トラブルがあれば当然手術は

 そう簡単には終了しない。もちろん予想外に

 病変の激しい場合は困難な手術となり時間は

 かかる。あるいは未熟な医師が行った手術は

 必ず時間がかかる。熟練者、あるいは「できる」

 やつというのは、短時間で的確にいい仕事を

 するものなのだ。

 
 手術にもはっきりと、適正な時間がある。

 適正な時間より明らかに短い時間で手術を

 やり終えるスーパーな手術があることはあるが、

 遅い手術でよいということはありえないはずだ。

 理由もなく異常に遅い手術はもはや手術とは
 
 呼べない。
 

  (PP.71-72)




 証拠が手に入らない 

医療訴訟が他の訴訟と異なる点は、
「肝心なところでは手に入らないもの」だ、と指摘
しています。怖ろしいことですね。


物的証拠が入手できなければ、原告側が勝訴
できるはずがありません。
遺族は踏んだり蹴ったりです。



 医療裁判では、本来ならば患者の病気の状態や、

 死亡の原因を客観的に物語るはずの実際の証拠

 は、肝心なところでは手に入らないものなのである。

 やはりある大学病院で行われた腹部の内視鏡手術

 で、患者が術直後に両足の血管が血栓で完全に

 閉塞してしまったことで死亡するという事例があった。

 裁判になっているようだが、裁判で提出された足の

 血管から摘出した血栓の写真について、本当に患者

 本人のものであるか、患者側から疑義が出されたと

 いうことだ。

 提出された写真は大きく印刷、というかプリントされた

 ものであった。

 まず第1の疑問は、血栓の写真には、よく手術で摘出

 した臓器の標本に見られる名前と日付けの名札が

 撮影されていない。というより、トリミング、つまり画像

 が切り取られたふしがあるということだ。

 第2の疑問は両足の血管が詰まっているにもかかわ

 らず写真は片足の血栓だけであったというのも不自然

 な点だということだ。血栓の形状はきれいに片一方の

 足の血管に詰まっていたそのままの形で並べられて

 いたらしい。

 医師が自分のデジカメで撮影した、ということなので、

 デジカメの機種を教えてもらい、IT機器に詳しい弁護士

 が検討するとやはり画像のサイズがあわないという。

 医師にメモリーに記録されているはずのもともとのデータ

 を提出していただきたいと希望したら、廃棄した、

 とのことだ。また提出された血栓の写真は、もともとの

 画像データを印刷し、その後それをスキャナーでスキャン

 したのだということだ。なんとも複雑な工程で出来上がった

 写真のようだ。
 

  (PP.76-77)


ここまで来ると、証拠の捏造と隠滅ですね。
とても信じられないことです。
ですが、現実に起こったことです。




 プロとは? 



 今日専門家、すなわちプロは、素人が理解できる、

 素人でも納得できる内容の「仕事」をしなければ

 ならないということであるし、それが可能となるよう、

 素人向けの素人受けするプレゼンができなければ

 プロとは言えない、ということだ。具体的にはまず

 医療行為のビジュアルで信頼のおける記録であろう。

 カルテや画像、手術のビデオ、それらはプレゼンの

 有効なアイテムなのである。

 こういった現場の専門家が一般素人社会に歩み寄る

 姿勢があれば、裁判はもっと判定がしやすくなるだろう。
 

  (P.91)



極めて分かりやすく、十分に納得できる「プロ論」だ、
と思います。
専門用語を並べ、「お前たちには分からないだろう」
という態度は、自分は優秀であるということをひけら
かしたいのでしょうが、その一方で誤魔化している
とも取れます。




 意見書 

意見書なるものがあります。私は鑑定に相当する
ものと考えていましたが、南淵さんは実際にはその
ような扱いはされていない、と述べています。



 実際に私はこれまでに10通以上の意見書を

 裁判に提出した経験がある。これらは、すべて

 患者原告側の依頼によるもので、裁判所鑑定

 という権威ある(はずの)ものではなく、私的鑑定

 意見書なるただの参考程度のものとの位置付け

 である。しかし、そこに正しいことが書いてあれば

 裁判官も「なるほど」と耳を傾けてくれるかもしれ

 ない、ということで一生懸命書かせていただくの

 だが、裁判官の心証の形成、つまり裁判の行方

 にどれだけ役に立っているのか自分ではわから

 ない。
 

  (P.104)



裁判官は法律の専門家ですが、医療の専門家では
ありません。


ですから、どのような手術がどのように行われたか、
十分に理解することは困難です。


勢い、原告(患者)側と被告(医師あるいは病院)側
の当事者あるいは、代理人(弁護士)のどちらが、
より「真実」に近い証言をしているか、心証で判定
することになってしまうのではないでしょうか。


裁判員制度が導入されましたが、選任された一般人
は、ほとんどが裁判と医療の知識がない素人です。
その人たちに裁定させるのは土台無理があるのです。




南淵さんの次の言葉は、じっくりと考えてみる必要が
ある、と感じました。


 心肺停止した後に行われた警察立会いの司法解剖

 においてもその原因がはっきりと究明できていない

 状況で、最初に診た開業医の責任が裁判で合理的

 に問われるとしたら、人が一人亡くなればどんな理由

 であれ、必ず一人の医師がその責任を問われること

 になる。これでは医者はこの世にいなくなる。患者死亡

 という、治療の結果がもたらす悲劇が、医療裁判を

 経由することで新たな過ちと禍根、諦めと不信、憤りと

 怒りを生み出すことになれば、医療という文化を朽ち

 果てさせてしまうだろう。
 

  (P.110)





第1章の最後で、南淵さんは次のように問題提起
しています。
『心臓外科医の挑戦状』の初出は2004年12月です。
11年近く前に書かれた状況が改善されていると、
よいのですが、私はそうでないことを危惧しています。



 この国では現在、大半の病院で、患者が受けた

 治療の内容が10年もたつと、誰も知らない、

 歴史に埋もれた事実という扱いになってしまうのだ。

 これも「何でも水に流す」という国民性のなせる業

 なのであろうか。
 

  (P.56)




かなり長い文章となりました。
第2回は、ここまでにします。


第3回は、
「第3章 医者同士の壁」
をお伝えします。




医者と患者の関係 (1)





医者と患者の関係 (1)

あなたは最近、病院や医院などの医療施設へ
出かけましたか?


私は、ここ数年、病気や怪我で医療施設を訪れた
ことはありません。


別に自慢でも何でもありませんが、「体調が悪い」
とか、「精神に異常をきたしている(?)」といった
自覚症状がないからです。 もちろん、怪我もして
いません。


ただ、還暦を来月に迎える今になって、五十肩(?)
かどうか明らかではありませんが、左腕を耳の横で
真っ直ぐ180度上げると、二の腕から肩と腕の付け根
あたりまでに鋭い痛みが走る瞬間があります。


加齢によるものだろうから仕方がない、と勝手に解釈
しています。


もう何年も風邪などで高熱を発したり、悪寒がするとか
の経験もしていません。鼻風邪(花粉症か?)は、
よくひきますが、鼻をかむだけです。



前口上はこの辺りで終わりにし、本題に入ります。


以前にもこのブログで取り上げたことのある、国際的に
高い評価を受けている心臓外科医の南淵明宏さんが
著した、

『心臓外科医の挑戦状』
(南淵明宏 中公文庫 2008年3月25日 初版発行)

を読了しました。


この本の中に、「医者と患者の関係はどうあるべきか」
というテーマが書かれた箇所がありました。


そこで、 「医者と患者の関係」 を中心に
本の内容と、私の考えをご紹介していきます。


もちろん、私は素人ですから解釈に間違いがある
かもしれません。


もし間違いがあれば、ご指摘していただけると幸い
です。


まず、南淵明宏さんについてご存じない方のために、
プロフィールをご紹介します。



 1958年大阪府生まれ。 83年奈良県立医科大学

 卒業。 国立循環器病センター、セント・ビンセント

 病院(オーストラリア)、国立シンガポール大学病院、

 新東京病院などを経る。医学博士。わが国屈指の

 心臓外科のスペシャリストとして国際的な評価も

 高い。 現在、大崎病院 ハートセンター長。
 

  (『心臓外科医の挑戦状』 「著者紹介」からの抜粋
 と、近況は心臓外科医 南淵明宏 公式サイトの
 「プロフィール」から補足





心臓外科医 南淵明宏 氏
Wikipedia から








目次

第1章 医者と患者の深い溝

第2章 違和感だらけの医療裁判

第3章 医者同士の壁

第4章 患者の心得




本書の章順に従って、内容をご紹介して
いきます。


第1回は、第1章 医者と患者の深い溝です。


医者と患者で立場の違いが、誤解を生じさせ、
問題を複雑化させていることに気づきます。
 「深い溝」とは?


南淵明宏さん(以後、南淵さん)は、まず患者の
誤解を次のように指摘しています。


多くの人に心当たりのある内容でしょう。



 「自分は素人」であり「医学知識に乏しく」、

 逆に「医者は何でも知っている」のであって

 「病院は病気を必ず治してくれる」と思考する

 パターンこそが、自分で病院の権威を闇雲

 に信じ込み、それだけ壁を高くしてしまう原因

 ではないかと私は思う。 患者側の病院に

 対する過度の期待が、病院を囲む城壁を実際

 より高く堅牢なものに補強しているというわけだ。
 

  (『心臓外科医の挑戦状』 P.20  以下同様)



一般的に言えば、医者になった人は当然のこと
として、他人(ひと)より多く勉強した人であり、
頭がいいという「事実」があります。


もちろん、医者になってからも最新医学の研究を
続けているかどうかは、患者側からは判断でき
ませんが。



 「ムンテラ」 という聞きなれない言葉が出てきます。
南淵さんによれば、「和製ドイツ語」だそうです。


ムンテラという業界用語ご存じでしたか?



 手術に先立って医者が患者や家族に行う

 説明、これをムンテラという。またそれ以上に

 も、医者が患者に行う説明行為を広義の

 「ムンテラ」という。

 日本の医者のほとんどはドイツ語を話せない。

 私もそうである。 話せないばかりか読めない。

 理解もできない。 しかし、日常の臨床風景に
 
 は和製ドイツ語がギョーカイ用語として通用

 している。その最たるものがこの「ムンテラ」

 である。

 ムンテラとは「ムント(口)」+「テラピー(治療)」、

 つまり「口で治療すること」であり、もっと具体的

 に言えば「言いくるめること」ということになる。
 

  (P.23)


ここまで書かれると、大半の医者は身も蓋もない
かもしれません。 あるいは憤慨するかもしれま
せん。


南淵さんの解説で、ムンテラは「手術に先立って
医者が患者や家族に行う説明」「またそれ以上に
も、医者が患者に行う説明行為」ということが
分かりました。


では、医療事故が発生した場合、具体的には
患者が手術中、あるいは手術後に死亡した場合、
遺族が医師や病院を相手取って訴訟を起こした
場合を想定してみましょう。


その場合、ムンテラは法律的にどのような位置づけ
になるのでしょうか?


そうした重要な問題を書いています。



 ムンテラの法律的解釈はどうなっているので

 あろうか。 医師法には、医師の健康指導義務

 という漠然とした規定があり、「医師は、診療

 をしたときは、本人又はその保護者に対し、

 療養の方法その他保健の向上に必要な事項

 の指導をしなければならない」とある。

 事実をもって説明、とは記載されていない。

 つまり医師の裁量(正しいと思うそれぞれの

 方法)で患者の健康向上に有益と判断された

 場合、「まっ赤な嘘」でもついてもいいことに

 なる。
 

  (P.26)



この説明を読んで、「当然のことだ」と理解する人と、
「えっ? そんなバカな!」と驚愕する人に二分される
かもしれません。


私は後者でした。




「プロの仕事とは何か」についても言及しています。



 外科医にとって、いかに入試偏差値の高い大学

 医学部を卒業していようが、手術においては手術

 経験がものを言う。 あたり前の話だ。 手術の

 経験が浅い外科医には、何よりも怖さを知らない

 という欠点がある。 どのような仕事でもそうだが、

 仕事は怖いものである。 プロの仕事とは、毎日

 いかにビクビクしながら怖がって仕事をしているか、

 と言い換えることができよう。
 

  (P.38)



私は手術を受けた経験がありませんので、
手術を受ける患者さんの不安な気持ちを実感
できません。


さらに言えば、大学病院で教授が「私が執刀する」
と口約束していたが、フタを開けるとインターンに
執刀させ、その結果、患者さんが死亡したという
ケースを聞いたことがあります。


「一件落着」となったかどうかは知りませんが、
「ムンテラ」の話を知ると、患者さんの遺族は言い
くるめられたのかな、と思ってしまいます。


手術を受ける患者さんの側からは、執刀医が手術
経験の豊富な医者なのか、あるいは極論すれば、
ほとんど手術経験のない医者であるかは、前もって
知ることはできません。


生還できるかどうかは、医師の手術経験数と巧拙に
左右されることになります。



 重要なのは、ある心臓外科医が年間に300例

 近く冠状動脈バイパス手術を執刀している一方で、

 乏しい経験数の心臓外科医がたまにしか手術を

 やらない病院で「私は経験豊富でミスはありません」

 と説明することがあり得るのだということを、

 十分に認識することである。
 

  (PP.51-52)


つまり、手術は運だということです。
実際に手術経験が豊富で上手い医者が執刀するか、
あるいは経験が乏しい医者が執刀するかで、
生死を分ける可能性は大きいということです。


もちろん、南淵さんは「年間に300例近く冠状動脈
バイパス手術を執刀して」いるそうです。


開けてみたら、手遅れだったというケースはある
でしょう。 そうなれば、どんなに手術経験豊富で、
手術が上手な医者でも「手の打ちようがない」ことは
ありえます。


もう一度、「ムンテラ」について確認しておきましょう。
手術に先立って医者が患者や家族に行う説明、
これをムンテラという。 またそれ以上にも、医者が
患者に行う説明行為を広義の『ムンテラ』という。」 
(下線は藤巻隆)。


手術後の説明はほとんど行われていないという現実を
知ると、一体どういうことなのか、と考えてしまいます。
無事生還すれば、「万々歳」でおしまいなのでしょうか?



 手術の前の説明については必要性が声高に

 強調されるものの、手術の後の説明については

 あまり重視されていない。しかし、患者が「病院の

 壁」の存在を強く感じるのは、治療の前ではなく、

 治療の後なのである。そしてその一番の原因が、

 病院からの十分な説明のなさである。
 

  (P.55)



手術成功後、執刀医が「手術は成功しました」という場面が、
医療ドラマや、医学ミステリー映画に出てくることがあります。


手術した患部がどのような状態であり、どのように処理し、
再発の可能性は何%あるのか、といった点に触れることは
ほとんどありませんね。




第1章の最後で、南淵さんは次のように問題提起
しています。
『心臓外科医の挑戦状』の初出は2004年12月です。
11年近く前に書かれた状況が改善されていると、
よいのですが、私はそうでないことを危惧しています。



 この国では現在、大半の病院で、患者が受けた

 治療の内容が10年もたつと、誰も知らない、

 歴史に埋もれた事実という扱いになってしまうのだ。

 これも「何でも水に流す」という国民性のなせる業

 なのであろうか。
 

  (P.56)




初回は、ここまでにします。


第2回は、
「第2章 違和感だらけの医療裁判」
をお伝えします。





医療の限界とは何か?(3)



医療の限界とは何か?(3)





『医療の限界』(小松秀樹 新潮社
2007年6月20日 発行)を読んで、
医療の現状を知り、感じたことを
書いてみます。


お伝えすべきことが多く、
また私の感想や意見もかなりのスペースを
割くことになりますので、3回にわたって
お伝えしていきます。


まず、著者について紹介しておきましょう。
現在、虎の門病院泌尿器科部長をされて
います。


「2006年に『医療の崩壊 「立ち去り型
サポタージュ」とは何か』で、病院医療の
危機を克明に描き、発現する第一線の
臨床医として注目される」
(上掲書 著者紹介 から)


著者、小松秀樹(小松)さんは「はじめに」で
次のように書いています。


日本の医療は今、崩壊の危機に瀕している、と。


 いま、日本の医療は危機に瀕しています。

 不確実なことをそのまま受け入れる大人の

 余裕と諦観が失われました。このため、

 本邦では医療のみならず、専門家と非専門家

 の齟齬(そご)が、社会の正常で円滑な運営

 の障害になっています。本書では、社会を

 支える基本的な考え方についての齟齬を、

 可能な限り偏見から自由になる努力をしつつ、

 凝視したいと思います。一部の方は不愉快に

 思われるかもしれませんが、その際には、

 不愉快の根源をどうかお考えいただきたい。
 

  (『医療の限界』 PP.3-4)


そして、この書の眼目とも言えることを吐露しています。



 日本の医療を守っていくためには、医療提供側

 の努力だけではなく、患者、司法、メディアなど、

 社会の側にも医療に対する認識を変更してもらう

 必要があると感じました。
 

  (上掲書、以下同様 P.5)


変化についても述べています。これは前進です。


 東京地検に出向いて議論もしたし、その後、

 検察官が医療現場の実情を現場で見学する

 ようになりました。検察が様々な分野の

 専門家や、ヒューマン・ファクター工学の

 専門家のレクチャーを聴くようになりました。

 これは、各専門分野と検察の相互理解、

 ひいては、過失犯罪に対する検察の合理的な

 対応にむけての、意味のある進展だと

 思います。
 

  (P.7)


小松さんが憂慮していることは、次のことです。


 私は医療崩壊の原因は患者との軋轢(あつれき)

 だと思います。使命感を抱く医師や看護師が

 現場を離れつつある。

 このまま事態が進んでいくと、結果的に困る

 のは医療を必要とする患者とその家族です。
 

  (P.8)


小松さんは突き放しているのではありません。
危機感を抱き、率直に述べているのです。



では、始めます!


医療現場の労働環境

小松さんは、医療現場の労働環境の実態を
つぶさに語っています。


この現状では、ヒューマン・エラー
(アクシデント)が起きても不思議では
ないと感じられます。


「ICU(集中治療室)化している」
(P.148)という言葉が象徴的です。


 日本の医療現場の労働環境は非常に過酷

 なのです。厚生労働省による診療報酬

 体系の改定で在院日数が短縮化されたため、

 私の勤めている虎の門病院のような急性期

 病院が全体的にICU(集中治療室)化

 しています。病棟ではさまざまなアラーム音

 が頻繁に鳴り響いている。私が主として利用

 している病棟(病床数56)では、患者を

 手術室に運び、また迎えにいくといった作業

 だけで1日10往復を超えることもあります。

 医療行為の瑕疵を問われないようにするため、

 手続きが複雑化しています。手術室で患者を

 受け渡す際には確認事項が多く、33項目の

 チェックリストがある。これだけで長時間の

 労力が要る。もちろん他の入院患者にも手が

 かかるし、随時、記録を残さなければいけない。 
 

  (PP.148-149) (註:赤文字は藤巻 以下同様)


ICU(集中治療室)化とは、どのようなもの
なのでしょうか? もう少し、具体的に解説して
いる個所がありますので、一緒に見てみましょう。


 ICUというのは重症で手間のかかる患者を

 治療する病棟ですから、通常の病棟よりも

 多数の看護師が配置されている。

 通常の病棟のICU化とは、看護師の労働が過酷

 になっているのに、それに見合った形での増員は

 なされていないことを意味します。

 こうした病棟では深夜勤務がとくに危ない。

 看護師2人で30~50名の患者を管理しな

 ければなりません。これは危険なことです。

 例えば、人工呼吸器はちょっとしたことで

 不具合が生じやすく、不具合が10分以上

 続くと、重大な被害が発生します。

 人工呼吸器を装着している患者がいると、

 人手さえあれば、起きないはずの事故が

 起きるのは当然のことです。
 

  (P.149)


こうした対応は、患者の家族(誰でもなりうる)は
欧米化、特に米国化していると言えます。
米国は訴訟社会で、しばしば企業よりも個人を尊重
する評決がなされます。


日本では、訴訟にまで発展するケースは多くないかも
しれません。示談で済ませることが多いでしょう。


いずれにせよ、訴えないと損だ、という風潮が増加
傾向にあると見ています。「泣き寝入り」はしない、
ということです。


いったん、事故が起きるとどうなるのか、
生なましい実態が報告されています。


 いったん事故が起きると、患者の家族は人員

 配置やコストの問題ではなく、あくまで善悪の

 問題としてとらえます。しばしば看護師を処罰

 することを求め、賠償金を要求します。

 もし院長が安易に患者の立場に立ってしまう

 ようだと、看護師の士気は落ち、大量辞職も

 起こりかねません。
 

  (PP.149-150)


どうしてこのようになってしまったのでしょうか?
それは、厚生労働省(国)による医療費の抑制政策
がとり続けられているからです。


 医療の崩壊が現実のものとして危惧されるなか、

 06年4月の診療報酬改定では、物価上昇傾向

 の中でマイナス3.16パーセントという史上

 最大規模の医療費削減が実施されました。

 日本の医療費は、80年代前半以降世界に例を

 見ない抑制政策が取られ続け、さらに強化されて

 います。
 

  (P.150)

患者に対する医療費は抑制し、予防医学という名目で
「検査」を多くし、「早期発見、早期治療」を国是として
いますが、余計な検査が多く、検査費用のほうが
かかっているという実態もあります。


いわゆる「検査漬け」です。検査、検査でいじくり回し、
かえって病状を悪化させている点も否めません。



市場原理の医療の怖さ

米国の医療費は非常に高額で、また保険料が高いために
低所得者では保険に加入することができません。


米国で自己破産の原因の第1位は何だかご存知ですか?
医療費です。


以下の記事は、「アメリカの自己破産の6割は高額な
医療費が原因」と言うものです。


 アメリカの自己破産の6割は高額な医療費が原因!

 もちろんアメリカにも国が運営する健康保険

 はありますが、加入できるのは高齢者と

 低所得者だけ。それ以外の人は勤務先などを

 通じて民間の医療保険を契約しますが、

 2008年時点で何の保険にも入っていない

 無保険者が全米に4570万人もいました。
 
 
 アメリカで自己破産した人の6割以上は医療費

 が原因。ですが、そのうちの8割以上が民間の

 医療保険に加入していたというから驚きです。


 (オバマ大統領は)一応の改革は行ったものの、

 民間の医療保険の加入を義務付け、その保険料

 を税金で補助することにしただけです。

 アメリカではますます医療破産が増えるので

 ないかと危惧されています。
 

  アメリカの自己破産の6割は医療費が原因…。
 (ダイヤモンド社 書籍オンライン から)


アメリカ社会を一言で言えば、
「アメリカにおける競争は徹底した個人同士の
競争」(P.184)
ということになります。


小松さんは、アメリカの病院に勤務していた医師
の体験を紹介しています。


 大井(玄、東京大学国際保健学元教授)氏は、

 職場は戦場であり、常に、競争、喧嘩、敗北

 を意識しながらの生活だったと書いています。

 病院では、競争の残酷な結果、すなわち、

 金持ちと貧乏人に対する極端な扱いの差を

 目撃しました。

 大井氏は、日本に帰国して、数年後、寝たきり

 老人や認知症の老人の宅診事業を始めたとき、

 診療後、自分が、決まって急性反応性うつ状態

 になることに恐怖狼狽しました。その根底には、

 能力を失い他人に依存すること、他者に自尊心

 を傷つけられること、自我が崩壊していくこと

 に対する恐怖がありました。彼の若い同僚たち

 にはそうした反応は起きませんでした。

 大井氏は、その原因を、「アメリカという本物

 の競争社会に生活し、競争の苛酷さを目撃した

 から」と分析しています。 
 

  (PP.185-186)


こうした反応は、アメリカという競争社会で生活
した人でなければ、分からないことでしょう。


さらに、自分自身が「寝たきり老人や認知症の
老人」になった時の姿を想像したからなのでしょう。


大井氏が体験したことが、さらに紹介されています。
先の話は、大井氏がアメリカ社会で垣間見た過酷な
競争の実態でした。


今度の話は、アメリカから日本の大学に留学してきた
女子大学院生が受けたカルチャーショックについて
です。


 大井氏は、ハーバード大学から東大に修士論文を

 書くためにきていた女子院生が、逆のカルチャー

 ショックを受けていたのを目撃しました。とくに、

 大学院生がお互いに助け合って仕事をしていること

 に、彼女は、倫理的怒りを含む衝撃を受けました。

 「『信じられないわ。ハーバードではだれもが他の

 だれとも競争しているのに!』」

 彼女にとって同僚とは、すなわち競争相手であり、

 自分が成功するためには打ち負かすべき対象であり、

 決してアイデアを提供して実質的援助をおこなったり、

 自分が独創性あると考える着想を共有する者では

 なかった。


 日本人は、はたして、市場原理主義が求める徹底

 した個人間の競争に耐えられるでしょうか。

 市場原理主義は、宗教を背景にしており、歴史的、

 倫理的に日本人にはなじみのないものです。
 

  (PP.187-188)


日本も少しずつアメリカ的な競争社会に変貌しつつ
あります。そこには弱者は切り捨てられ、強者のみが
繁栄する「格差社会」の到来です。


1%の金持ちと99%の貧しき者という社会が、
現実味を帯びてくることでしょう。


同じ病を患っても、金持ちは治してもらえるが、
貧乏人は適切な治療を受けられず、野垂れ死ぬ
ということが当然のこと、となるかもしれません。


日本社会の伝統に「思いやり」があります。
アメリカの女子院生がカルチャーショックを受けた
「助け合いの姿」は「思いやり」の気持ちが根底に
あります。


日本人の伝統である「相手を思いやる」気持ちが
薄れたり、なくなると、刺々しくギスギスとした社会
になることは間違いありません。


「お・も・て・な・し」が流行語となりましたが、
「おもてなし」は度を過ぎると、余計なお世話になり、
迷惑がられます。押し付けになってはいけません。


その点で、「思いやり」は奥ゆかしさがあり、
相手の気持ちを尊重した態度です。


そのあたりの感覚は、アラカン(アラウンド還暦)の
私の世代以上の人間と、若い世代の人間とは、
意識の差があるかもしれません。


今回、『医療の限界』を読んで、深く考えさせられ
ました。医療の限界だけでなく、あるゆる面で、
日本社会が大きく変貌しつつあることを実感した
からです。


現在の安倍政権は、確実に「格差社会」を促進
するための施策を打ち出しています。


大前研一さんが提唱した「生活者」の生活が、
日に日に苦しくなっていくような政策を、矢継ぎ早に
実施しています。


「機会の平等、結果の不平等」は、しかたのないこと
です。やってもやらなくても結果が同じでは、やらない
ほうがいいとなるからです。役人のように。


スタートラインに立って、よーいドンでスタートしたが、
一方は圧倒的に早くトラックを駆け抜け、ゴールのテープ
を切り、後続者は数秒遅れでゴールしました。
明らかな順位がつきました。


力の差は歴然です。
それは認めざるを得ませんね。


ですが、機会が平等に与えられず(スタートラインに立つ
ことができず、つまり門前払いされ)、結果だけ不平等
(上位入賞者と着外)では、大多数の生活者は納得でき
ません。競争に参加できないのですから。


今後も医療問題について追究していきます。
他人事では済まされません。


「私には関係ない」、と言い切れますか?


重いテーマを最後まで読んでいただき、ありがとう
ございました。





"
現代医療の限界ー現場医師の本音





医療の限界とは何か? (2)



医療の限界とは何か?(2)






『医療の限界』(小松秀樹 新潮社
2007年6月20日 発行)を読んで、
医療の現状を知り、感じたことを
書いてみます。


お伝えすべきことが多く、
また私の感想や意見もかなりのスペースを
割くことになりますので、3回にわたって
お伝えしていきます。


まず、著者について紹介しておきましょう。
現在、虎の門病院泌尿器科部長をされて
います。


「2006年に『医療の崩壊 「立ち去り型
サポタージュ」とは何か』で、病院医療の
危機を克明に描き、発現する第一線の
臨床医として注目される」
(上掲書 著者紹介 から


著者、小松秀樹(小松)さんは「はじめに」で
次のように書いています。


日本の医療は今、崩壊の危機に瀕している、と。


 いま、日本の医療は危機に瀕しています。

 不確実なことをそのまま受け入れる大人の

 余裕と諦観が失われました。このため、

 本邦では医療のみならず、専門家と非専門家

 の齟齬(そご)が、社会の正常で円滑な運営

 の障害になっています。本書では、社会を

 支える基本的な考え方についての齟齬を、

 可能な限り偏見から自由になる努力をしつつ、

 凝視したいと思います。一部の方は不愉快に

 思われるかもしれませんが、その際には、

 不愉快の根源をどうかお考えいただきたい。
 

  (『医療の限界』 PP.3-4)


そして、この書の眼目とも言えることを
吐露しています。



 日本の医療を守っていくためには、医療提供側

 の努力だけではなく、患者、司法、メディアなど、

 社会の側にも医療に対する認識を変更してもらう

 必要があると感じました。
 

  (上掲書、以下同様 P.5)


変化についても述べています。これは前進です。


 東京地検に出向いて議論もしたし、その後、

 検察官が医療現場の実情を現場で見学する

 ようになりました。検察が様々な分野の

 専門家や、ヒューマン・ファクター工学の

 専門家のレクチャーを聴くようになりました。

 これは、各専門分野と検察の相互理解、

 ひいては、過失犯罪に対する検察の合理的な

 対応にむけての、意味のある進展だと

 思います。
 

  (P.7)


小松さんが憂慮していることは、次のことです。


 私は医療崩壊の原因は患者との軋轢(あつれき)

 だと思います。使命感を抱く医師や看護師が

 現場を離れつつある。

 このまま事態が進んでいくと、結果的に困る

 のは医療を必要とする患者とその家族です。
 

  (P.8)


小松さんは突き放しているのではありません。
危機感を抱き、率直に述べているのです。



では、始めます!


医学と司法の埋めがたい深い溝とは?


医学と司法との間にある深い溝について
書いています。


第1回に少々取り上げましたが、
著者小松秀樹さんは、医学と司法との間には
隔たりがある、という話を書いていました。


具体的見ていくことにしましょう。


 医療においても、警察は判断能力を持ちません。

 医療は危うくなった生命を救おうとしますが、

 しばしば成功しない。医療は極めて多様な決定を

 しながら実施されます。その中には、通常ならば

 考えつかないような妙案、ほぼ適切なもの、多少

 は不適切なもの、非常に不適切なもの、いろんな

 ものが混じり合うのです。ある状況での正しい

 医療行為は、一つに限定されるわけではない。

 正しい医療、あるいは選択可能なものは多数あり

 ます。
 

  (PP.76-77) (註:赤文字は藤巻 以下同様)


ここでの説明を読みますと、多数の選択肢から
医師が状況に応じて、迅速、的確に判断し医療
行為を実施していかなければならないことが、
分かります。


そうした中で、人間が行う以上、「誤り」が生じる
ことを防ぐことは極めて難しいと言えます。


「To err is human, to forgive divine」(過つは
人の常、許すは神の業)(P.45)という言葉は、
医療においても当てはまる、と小松さんは考えて
います。


そのことの証左として、次の言葉があります。


 医療は常に不完全技術です。完璧でなくても

 やらないといけない。いつも改善すべき点が

 存在する。改善するための努力を常にしている

 のです。
 

  (P.77)


そのような実情を知らず、警察官も検察官も医療に
踏み込んでくることに批判的な意見を述べています。


 警察官も検察官も医療についてあまりに

 知りません。私が手術をしたある検察官

 が言っていました。

 「医療がどのような経過で進められて

 いるものかが、想像できていなかった。

 さらに自分が想像できていないことが、

 想像できていなかった」。彼は、医療

 従事者側から医療をみたわけではなく、

 ただ患者として手術を受けただけにすぎ

 ません。手術前後の医療側の業務の多さと、

 夜勤看護師の業務に驚嘆したようでした。
 

  (PP.77-78)


医師法第21条について書いています。
この規定は、異状死は警察に届けなくては
ならないというものです。


 医師法第21条は、「医師は、死体又は

 妊娠4月以上の死産児を検案して異状が

 あると認めたときは、24時間以内に

 所轄の警察署に届け出なければならない」

 と規定しています。
 

  (P.81)


異状死として届け出ると警察はどのような行動を
取るのかについては、このように書いています。


 異状死として届け出ると、警察は犯罪がある

 ことを念頭に操作を始めます。犯罪を前提に

 捜査する以上は、被害者、被疑者としてみる。

 しかも家族が被害感情を持った場合、それは

 容易に警察官に伝播します。警察官も同じ

 ような感情を持つようになると、犯罪を前提に

 事情聴取を行い、ときには乱暴なことをしだす

 のです。

 しかも司法解剖の結果が病院に伝えられない

 ため、かえって紛争が拡大するということが

 起きています。
 

  (P.83)


「司法解剖の結果が病院に伝えられない」という
事実を初めて知りました。


警察官は「先入観」を抱いて捜査することが習慣化
されているため、時に大きな誤りを犯すことがあり
ます。



医学は未来志向、司法(法学)は過去と照合し検討


医学と法学との間に深い溝がある理由は、
医学は未来に向かって変化していくものに対して、
法学は過去の文章や判例の検討にある、
と小松さんは考えています。


方向性が異なるということです。
ですから、交わることがないという考え方です。


 医学は未来に向かって日々変化するものです。

 他方、法律家は、過去の文章や判例が検討の

 対象であり、未来への働きかけをあまり考え

 ません。医学の膨大な知見を無視して、感情や

 駆け引きで医療の瑕疵を追及し、法律の都合に

 合わせるのは危険なことです。
 

  (PP.95-96)


ただ、警察官や検察官、さらに裁判官に
「医学の膨大な知見」を理解することを
求めるのは、無理があるのも事実です。



知的財産高等裁判所

刑事事件と民事事件の違いはありますが、
裁判官が科学的な知識が乏しいために、
研究者が開発した特許技術を正当に評価
できなかった話を今、思い出しました。


現在では電光掲示板や信号機、室内灯などに
広く使われるようになったLED(発光ダイオード)
照明があります。


光の三原色(RGB=RED、GREEN、BLUE)のうち、
青色LEDは世界中の企業や技術者が開発に
シノギを削っていましたが、誰にもできません
でした。





青色LEDが開発されていなかったために、
光の三原色ができず、あらゆる色彩の光を
生み出すことができていませんでした。


中村修二・米カリフォルニア大学サンタバーバラ校
教授は、実質的に一人で青色LEDを開発しました。


市販の装置をそのまま使っていては、青色LEDは
開発できないと分かると、中村さんは自ら装置を
改良し、青色LEDを開発したのです。


中村さんは特許を出願し、特許庁から承認され
ました。


ところが勤務先の日亜化学工業の評価は極めて
低いものでした。


そこで中村さん(原告)は日亜化学工業(被告)を
相手取って訴訟を起こしました。


第一審では、原告側の主張が認められ、
200億円の価値があると認定されました。
実質的には600億円とも言われました。


被告側は、その判決に納得せず、即時に控訴
しました。


その結果、何と第一審の100分の1の2億円と
認定されたのです。


最高裁へ上告することも考えたそうですが、
これ以上、時間と訴訟費用をかけることは、
研究者として損失が大き過ぎると判断し、
上告を取りやめたそうです。


2億円でもいいじゃないか、と思われるかも
しれませんが、
「裁判費用や弁護士費用、証拠資料の収集
のための費用、さらに膨大な時間を費やし、
ほとんど何も残らなかった」、
と中村さんは語っています。


中村さんがこの訴訟に拘ったのは、日本の
研究者が過小評価されている現状を打破したい
と考えたからでした。


傷心の中村さんは、国内外の多くの企業や大学
からの招聘がありましたが、
「もう日本には未練がない」
ということで、すべて断り、
以前から声をかけられていた米カリフォルニア大学
サンタバーバラ校教授となりました。頭脳流出です。


現在、新たな研究に日夜勤しんでいるそうです。
日本にとって大きな損失です。


裁判官に最先端の科学技術の知識を要求しても
到底無理な話です。科学技術の乏しい知識を前提
に、判決を下すのは無謀です。


その点、米国には「知的財産高等裁判所」
(知財高裁)が、はるか以前から設置され、
知的財産権(特許など)に関する訴訟を取り扱って
います。


ようやく日本でも、米国に倣って「知的財産高等
裁判所設置法」(知財高裁設置法)が施行され
ました。


下記のリンクをご参照ください。
施行されたのは、平成17年4月1日です。
知的財産高等裁判所設置法
(平成十六年六月十八日法律第百十九号)



施行されてから9年以上が経過していますが、
めざましい成果を上げているとは言い難い
ですね。


科学技術に明るい裁判官の育成が進んでいる
とは、到底言えないからです。

知的財産高等裁判所 Wikipedia から


知的財産権を取り扱う、知財高裁と同様に、
医療事故の訴訟を専門に扱う裁判所が必要
ではないか、と思いました。


ただ、知財高裁は「高等裁判所」であり、
原告か被告のどちらかが、判決に不服を申し立て
上告した場合、結局、最高裁で争われるので、
知財高裁の裁定が尊重されるのか、疑問があります。



話が脇道にそれました。
話を戻します。



リベラル・アーツ

小松さんは、医学部に対しても批判的な目を向けて
います。医師になるまでの一般教養をしっかり身に
つけさせるべきだ、という意見です。


 医学部に入ると6年間の教育を受けますが、

 医師を育成するための重要なこと教育が

 不足しています。文学、歴史、哲学、思想史

 といった思索を深めるような教養科目は二の次

 で、専門教育に偏りすぎています。

 指導的医師になるためには、知性、教養が

 不可欠です。現在のような医療混乱期に、

 指導的医師に求められる能力は、医学部での

 教育では得られません。教養教育が重要だと

 思いますが、必ずしも、大学で直接教える必要

 はありません。イギリスの大学生は入学資格を

 得ると、1年間大学に行かずに世界を旅して

 回ることが許されるそうです。若い時期には

 人間としての基礎、土台をつくるために、

 こうした精神的放浪も必要なのだと思います。
 

  (PP.129-130)


小松さんが指摘しているのは、欧米でリベラル・
アーツ(Liberal Arts)というものです。
一般教養です。


かの世界一の大学と称される米ハーバード大学
には、教養学部(リベラル・アーツ)しかない
そうです。


以前勤務していた介護老人保健施設の理事長は、
ハーバード大のリベラル・アーツ卒でした。
ハーバード大では一般教養を学び、大学院で
専門教育を受けることを知りました。


ハーバード大学 Wikipedia から


ハーバード大学



ハーバード大学と大学院




医師が、個人の能力を伸ばすための条件

小松さんは、医師が、個人の能力を伸ばすための
4条件を提示しています。


 医師が、個人の能力を伸ばすための

 条件は、

 ①たくさんの患者を診られる

 ②勉強する時間がとれる 

 ③議論できる仲間がいる

 ④他との交流ができる、ことです。

 この4条件の中で、研修病院には、

 勉強する時間が足りないこと、仲間が

 少ないこと、交流がないことが決定的

 な問題です。研修病院は大学の医局

 よりさらに交流がないのです。

 医療に進歩、変化が求められるかぎり、

 能力を向上させるための交流、すなわち、

 人事異動制度を研修制度に組み込むべき

 です。これは個々の病院だけでできる

 ことではありません。医師の育成には

 病院間、大学間、あるいは一般病院と

 大学間の協力がどうしても必要です。 
 

  (P.140)


この本の中で、小松さんはかなり突っ込んだ
意見を度々述べていますので、反感を買う
ことが予想されます。


それでも、歯に衣着せぬ意見を言い続けられる
のは、そう簡単に負けない経験と実績に裏打ち
された自信があるからでしょう。


第3回、最終回になりますが、医療現場の過酷
な実態と、「混合診療」がメディアで取り上げ
られるようになってきましたので、日米の医療
の比較等についてご紹介します。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。





"
現代医療の限界ー現場医師の本音





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プロフィール

医師看護師薬剤師の味方

Author:医師看護師薬剤師の味方
藤巻 隆(ふじまき・たかし)と申します。

私のメインサイト 本当に役に立つビジネス書 をご覧になったことがあるかもしれません。

今年2013年4月16日で、立ち上げてから12年目を迎えます。

今度は、医師、看護師、薬剤師の方の転職を支援するためにブログを立ち上げました。

より条件の良い職場に移りたいとお考えの方は、一般企業に務められている方も、医師、看護師、薬剤師の方も同じです。

さらに、医学に関するいろいろな情報を掲載し、ブログ閲覧者に資することを目指します。

建設的なコメントを希望していますが、有益なコメントであれば、厳しいご意見もお受けします。

あなたとともに私も成長し、このブログが定評を得るようになれば、パーソナル・ブランディング(自分ブランド力)を高めることができます。

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